あの伊建築家がイタリアを語る【中編】:レンゾ・ピアノ

世界を舞台に活躍するイタリア人建築家レンツォ・ピアノ。
最近、伊紙に掲載されたロング・インタビューを三回シリーズで紹介しておりますが、その中編であります。
レンツォ・ピアノが各時期の盟友達について、彼の事務所で働く若者達について語ってます。
おっと、前編がまだの方は、まず、そちらからどうぞ!

パリ 『イタリアに唾するのを見ると腹が立つ。グリッロの運動は正しい』

その後、シンガーソングライターのファブリツィオ・デ・アンドレー氏とも知り合われてますね。
「彼やルチアーノ・ベリオ(作曲家)と3人で、国歌を作り変えるのに憧れたんですよ。ファブリツィオが歌詞を書いて、ルチアーノが作曲、僕が国旗のデザイン担当
でね。
デ・アンドレーはね…孤独を愛し、愛らしい感じの、デリケートなタイプでしたね。気軽に付き合えるような人間ではなかった。ちょっとジェノヴァの町に似てるかな。内向的で、用心深く、開けっぴろげなところはあまりない。ジョノヴァの町と、そこで生まれ育った人間は良く似てますよ。エウジェーニオ・モンターレ(ジョノヴァ出身の詩人、ノーベル文学賞受賞)がこう言ってます。2つのタイプがいる、アワビみたいに町にピッタリくっついてる者と、町から離れて行く者と。私は離れて行きましたね。」
「ミラノは人生の発見でしたね。最も自分自身を形成した時期でした。1968年の学生運動を、僕らはその5年前にやってしまったわけで。昼間はフランコ・アルビーニと一緒に働くことにしたんです。師匠の一人なんですが、一言も発することなく教える人でした。うちの父親みたいにね。そして夜は、学生が占拠している大学へ通いました。カミッラ・チェデルナ(ジャーナリスト)もいて、僕らにチョコレートを持って来てくれました。
建築家としての訓練はその頃しました。人々を理解する訓練もね。同年代の人間同様、僕も世界を変えたいと望んでいた。建設業者の息子として、そうするにはこの仕事しかあり得なかった。反抗心、探検して歩く必要性、あちこちに首を突っ込むこと…が、ぐちゃぐちゃに混ざり合ってましたね。ネオレアリズム映画はいかにして作られるのか。リアルな世界を息づかせるために現実の中で掘り起こしてゆくこととか。それは自分自身の内部に芽生え、もう自分を見捨てたりはしないようなものでした。そこにはまり込んでしまうわけですよ。
アーティスティックな観点と言うのは影響力があるのもので、ジャーナリストにとっての素晴らしい文章力みたいなものですよ。一つの前提。本質ではありませんがね。建築って言うのは、建造すると言うアートです。だが、出鱈目なものじゃない。誰のためのものか、何のためのものかを決めなければならないのです。」
「1968年末には私はロンドンに居ました。71年にリチャード・ロジャース(イギリス出身の建築家)と組み、協同建築事務所を開いたんです。
当時は黒いあご髭を長々と生やしていました。エミリオ・ヴェドヴァ(ヴェネツィア出身の画家)と、どちらが長く伸ばせるか競争してました。
その後、アメリカで仕事をした後、ポンピドゥー・センターの建築コンクールで優勝して。それ以降、パリを拠点にするようになったんです。
私はいつも町中に事務所を開き、そこで働いてきました。ここ以外に、ジェノヴァとNYに事務所を常設してます。古い精肉市場の中にね。30年以上、15人のパートナー達と一緒に仕事をしています。それから所員の皆さん、全部で150人になりますね。」

パリのアトリエには若い建築家がどっさりいて、土曜の午後も働いてますね。
「アメリカやヨーロッパ、アジアの大学が派遣してきた奨学生等もいますね。我々は給料を払い、そして、彼らは学んでゆく。
かなり自信満々でここにやって来る者もいますよ。ハーバード大学の学生でね、ここに来た1ヶ月後に間違って個人的な内容のメールを自分の大学全員に向けて送ってしまった者がいたんですよ。《ここの連中はみんなイカれてる。レンツォ・ピアノは支離滅裂な指示を出してくる…》ってね。この事が明るみになった時、この学生はどんな罰を受けるものかと待ち構えていたんです。だけど、誰からも何も言われなかった。我々は真綿で首を締めてやったわけですな。そうしたら、彼の方が態度を変えましたよ。謙虚で、協力的、完全に学ぶ姿勢になったんです。」

1970年代、レンツォ氏がリチャード・ロジャース氏と共にポンピドゥー・センター設計に取り組んでいた際、パリにはレンツォ氏にとって重要な作家イタロ・カルヴィーノ氏も滞在してましたね。
「カルヴィーノ氏の著書『見えない都市』の中に、水道管でできた町が出てくるんです。水道修理工だけが働いている工事現場で、決して来ることのない左官工らを待っているんです。結局、流れる水の妖精達ナーイアスらが住みつくって話なんですが。この町って言うのがポンピドゥー・センターのことなんです。壁がなくって、水で一杯のパイプばかり。火事が起きても万端のね。どちらが先にこれを思いついたのか分からないんですよ。我々のプロジェクトと、イタロ・カルヴィーノの物語とどちらが先だったのか。彼が工事現場に良く来ていたのは知ってますが。ミケランジェロ・アントニオーニ(映画監督)も良く来てましたね。多くの作家同様、カルヴィーノも自分自身の具体的な何かを残したいと強く思ってましたね。建物の清掃システムのアイデアをアドバイスされたこともありますよ。自動洗車機みたいな動く巨大なローラーでした。」

ノルベルト・ボッビオ氏(トリノ出身の思想家)については?
「道義面でのガイド、遠くにいる師です。時折、トリノまで訪ねて行ったものです。
人生には人を説得して歩くよりも素晴らしいことがあるって教わりました。例えば、正当な考えを抱くとかね。」
兄にあたるのはウンベルト・エーコ氏ですね。
「知り合って40年、一緒に方言で俗歌を歌ったりしてます。《アタイはチビだけど…》ってね。」

ガエ・アウレンティ女史(ウディーネ出身の建築家)は「偉大な雌ライオン」で、ヴィットリオ・グレゴッティ氏(ノヴァーラ出身の建築家)については…
「時々、誰かが我々を揉めさせようとしますが。私の師匠でしたし、いつだって最高の関係でしたよ。」

特に親しい友人と言えば音楽関係の方々ですね。ピエール・ブーレーズ氏(仏出身、作曲家)やサルヴァトーレ・アッカルド氏(トリノ出身、ヴァイオリニスト)等。
「アッカルド氏は息子ジョルジオの名付け親なんで、息子がヴァイオリンを弾いてるのも偶然じゃないわけですね。」

ダニエル・バレンボイム(アルゼンチン出身のユダヤ人、ピアニスト)については、
「ベルリンでクレーン車18台のバレエ音楽を指揮してましたね。あのクレーン車は、うちの工事現場のものなんですよ。各台とも国籍の違う操縦者だったんですよ。延べ5千名いましたが、ドイツ人は500名だけでしたね。」

[ 後編に続く ]

(日本語翻訳:La Chirico / 伊語記事:Corriere della Sera 2010年10月11日

今さっき、イタリアTVの生番組に
レンツォ・ピアノ本人が出てまして…
「若い人達は一度国を出て、世界を見て、そして戻って来い」と。
わ、わたし…どうしよう。
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