東ドイツで初のピザ屋:ベルリンの壁、崩壊から20年

ベルリンの壁が崩壊してから20年。
イタリアではTVニュースでちょこちょこ取扱われていた程度で、プライムタイムに実況中継の類いはなかった気配でしたが、新聞の方に東ドイツで初のピザ屋さんを開いたイタリア人2世の記事が掲載されてました。
当時のピザは材料不足のため苦肉のレシピだったようですが、『照り焼きチキン』とか『カレー』の乗った日本のピザに比べたら、トラディショナルに近い感じですけどね。

 

 

ベルリン 『メニューはピザ3種類だけ、壁崩壊で全てが変わった』

ピザに愛情とイマジネーションを。
1982年1月1日と言えば、ロナルド・レーガンがアメリカ大統領に就任して間もなくの頃で、店々の棚はパソコンの第一号機で埋め尽くされ、イタリアでは『Maledetta Primavera(呪われた春)』と言う歌が流行っていた。
そして、ドイツ民主共和国(東ドイツ)では、ザクセン州のハレ市、ベルリンから約130km離れた町に『Belletti’s Pizzeria(ベレッティのピザ屋)』なるピザ屋が開店したのである。
店主のディーター・ベレッティさんと、妻テクラさんがこの『東ドイツ初のピザ屋』について語ってくれた。

材料はメイド・イン・ソビエト − 材料は配給物資で、ソ連製。ピザ釜にレシピもなし。メニューはピザ3種類。材料が底をついたら売り切れ、金曜日のみの販売で値段は1.95オストマルク(東ドイツのマルク単位で、約60円)。しかし、文句なしの大繁盛だった。
「毎週金曜日には店の外に行列ができたものですよ。何年もの間、“東ドイツじゃ、誰もピザなんか食べない” って言われて行政から営業許可を下ろしてもらえなかったんですけどね。それがお客の中には社会党の党員もどっさりいて。シュタージ(東ドイツの諜報機関)のスパイまでいましたよ。うちの店を監視していた連中でね。」とディーターさんは笑う。

メニューのピザ3種 − ディーターさんの父親はイタリア中西部ルッカ出身のイタリア人で、第二次世界大戦後、 愛する女性のためにドイツへと移住してきた。
現在53歳のディーターさんはイタリア語は話せないが、イタリア料理のコックをし、店を開きたがっていたのだが、東ドイツでそれを実現するには、イマジネーションと才覚が必要だった。
ベレッティ夫妻は自分達だけで木のカウンター(写真:開店当時のベレッティ一家)を作り上げ、洗濯物のしわ伸ばしのローラーに使う木軸をピザの『のし棒』にした。
また、電気技師だった友人がローストチキン用のグリルを改造してピザ釜を作ってくれた。
ピザの具材には手近にある物をアレンジし、例えば、『田舎風ピザ』には生ソーセージとキュウリのピクルス、ハンガリーのレッチョ(赤唐辛子、トマト、玉ねぎをペースト状にしたスパイス)を使い、また、『イタリア風ピザ』ではレッチョとサラミをベースにし、大人気だった『ストレンジ・ピザ』にはハムとオレガノ、スグリの実をのせた。
「本当はパイナップルを使いたかったんですが、手に入らなかったのでスグリの実で間に合わせたんです。」とディーターさんは当時を振り返る。

ベルリンの壁崩壊後 − レシピ通りパイナップルが使えるようになるには、1989年まで待たねばならなかった。
ベルリンの壁が崩壊し東西の境界がなくなると、ベレッティ夫妻はやっとイタリア製品が買えるようになり、メニューのピザも種類が増えていった。本物のピザ釜とのし棒も買い入れた。
11月9日に壁が崩壊した際には心底からは信じられず、
「通りに出て行って、皆と同じように大喜びはしましたが、本当に東ドイツがなくなるなんて思わなかったですね。」と話す。
現在、ベレッティ夫妻はピザ屋を閉め、ケータリングビジネスに身を投じている。(右上写真:最近の店内)
ベルリンの壁崩壊20年に向けての企画は特にないそうで、9日は活気がなく麻痺状態、ケータリングの予約は全然入っていないとのこと。
(2009年11月9日 Corriere della Sera)

 

 

『グッバイ、レーニン!』と言う映画で、壁の崩壊を知らずに過ごしている病み上がりの母親のために息子が旧東ドイツ独特の食品探しに苦労する…って言うエピソードがありましたが。
このピザなんかも、東ドイツ独特の懐かしの味のひとつなんでしょうね。

 

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