仏さんといっしょ、楽しい海水浴…

ここ最近、私が住むイタリア中部地方でも日中は30度を軽く超える暑さでして、海に行く以外なにしろってさ〜って感じです。
しかし!
やっぱり、限度とか節度って大切ですよね…。

 

 

ナポリ『ビーチパラソルの下、死体のそばで』

波打ち際で、開いたまま横に倒されたビーチパラソル。その下には、全身をすっぽりと覆われた男性の遺体が横たえられている。1、2m先に置かれているのはバッグと、空っぽのイス。
ここはナポリの通称マッパテッラ・ビーチと呼ばれる海岸で、ナポリ市民が海水浴を楽しむ場所だ。

一体、何が起きたのかを説明する前に、まず、この写真だけでも驚くべきものがある。
もはや息せぬ骸(むくろ)の周りに広がる光景は、海水浴客でにぎわう真夏の海岸…。
肉付きの良いご婦人が連れの背中にクリームを塗ってあげていたり、後ろ手に立って会話を楽しむ男性らの輪、日を浴び続ける者もいれば、ビーチベッドや砂の上に敷いたビーチタオルを整えている者、海に足だけ漬けている者、読書中の者や走り回って海へ飛び込む少年もいる。それから、イスの下で丸くなって寝ている犬。
この、身も凍るような『真夏の日常』。死体と共に繰り広げられる『日常』。
少年と老人の二人だけが何かを待っているような素振りで、遺体の方に視線を投げかけている。

その他の人達は遠くを見つめ、いや、むしろ死体が視界に入らないように全力を尽くしている。
いやいや、そうではない。視界に入らないようにしているのではなく、見えていない…それだけの話なのだ。横に倒されたビーチパラソルが、この受け入れがたい事実を覆う手助けになっている。
お亡くなりになっているのはアントニオ・ソンマリパさん(73才)、ミラノ郊外に住んでいた男性で、今朝、波の穏やかな海上に浮かんでいるところを海水浴客らが発見した(発見当初、息があったかどうかは不明)。
アントニオさんが浮かんでいた地点は、小さな子供が一人で遊んでいても溺れる危険のない安全な場所だった。
海水浴客らはすぐに救急車要請の電話を入れたもののアントニオさんの救助はせず、これは救急隊員らに任せた方が良いと判断したためだと言う。

しかし、しばらくして海水浴客の一人が思い直し、アントニオさんの体を岸辺へと引上げるが、医師らが到着した時には溺死を確認する以外に手だてはなかった。
それにしても、ナポリのメイン海水浴場に監視員もいなかったのだろうか?
どうやら、これがいなかったのだ。
それでは、ナポリのメイン海水浴場に哀れみの気持ちと言うものはないのだろうか?
これが、ないのだ。
この身も凍るような『日常』から判断すると、一人の人間の死と言うのは空いているイスに過ぎず、放置されたバッグはゴミ箱の一つに過ぎないのだ。
ゴミ同然と言うことなのか…。
目と鼻の先でが人が死んでいると言うのに新聞を読み続けることができるのなら、友人の背中に塗るために日焼けクリームのキャップを開けられるのなら、日焼けするのに両足を広げ仰向けで寝ていられるのならば…。

このマッパテッラ・ビーチを取り囲む石ころでさえ、人の死を前にしてこれほど冷淡になれるようには見えない。
詩人のジュゼッペ・ウンガレッティに『徹夜』と言う作品がある。
戦時下の夜半、『同胞が/殺されている/その口元の/むき出しの歯は/満月に向けられ/うっ血したその両腕』を見ながら脱走する兵士。思い出すのはその夜、『私の静寂の中へと入り込んでくる』死体の傍らに身体を横たえ、かつてこれほど『“生”に寄り添った』ことはないと思い、『愛に満ちあふれた手紙』を書き始める。
死に、つまりは生に対し敬意を払うには、戦争による殺戮が必要なのだろうか?
それとも、満月の下でのみ抱ける感情であり、炎天下では無理なのか?
戦場では感じられるが、海水浴場ではだめなのか?
軍服でなら…でも水着では?
突き出た腹や太い足をむき出しにしてならば?
つまりは、平和な時代に、豊かな時代には感じ得ないものなのだろうか…。(2009年7月31日 Corriere della Sera)

 

 

ちなみに、この下にある『マフィア殺人、衝撃の生映像』と言う記事では、マフィアに撃たれた男性が倒れている側で、平気で携帯電話で話し続ける人やら、切符を改札に通す人やらが映っていて話題になったばかりだったんですが。

 

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マフィア殺人、衝撃の生映像 − カモッラ(ナポリ・マフィア)−


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