ムッソリーニの娘と共産主義者の恋

イタリアの政治家でファシズムの創始者と言えば、ベニート・ムッソリーニ。
その長女であるエッダ・ムッソリーニは、夫がムッソリーニの政権下で外務大臣を務めていたにもかかわらず、ムッソリーニ解任を支持したために銃殺刑で殺された…と言うだけでもエラい話なんですが、実はその後、政治的に叶わぬ恋に苦しんでいたことが分かったんです。

 

イタリア 『ムッソリーニの娘、パルチザン兵士に恋の病』

 

ムッソリーのの娘が流刑されていた島で、パルチザン兵士との関係をつづった書簡をマルチェロ・ソルジ氏が発見

ある夜、私はエッレニカに出会ったのだった。島中を引き回しの間、島民を鎮めるにはわずかな一言、二言でよかった。最後には、彼女はまるで翼が折れ傷ついたツバメのように私には映った。」
そして、このエッレニカと呼ばれる女性の方はと言えば、たくましく美しいその青年に惹かれ、心中ではすぐにイタリア叙事詩『狂えるオルランド』の名馬バイアルドの名で呼ぶようになっていた。数日後には、彼に手紙をしたためている。
「親愛なる貴方様へ
もしもできることでしたら、政治のご用や日曜日の息抜きの合間に、私のところへ逢いに来てはいただけませんでしょうか。」
これは小説などではなく、本当にあった恋物語。思いもかけない男女の悲恋話である。
「エッレニカ」とはエッダ・チャーノのこと。ベニート・ムッソリーニの長女であり、1945年9月から翌年6月までシチリア北部に浮かぶリーパリ島へと流刑されていた。
そして、手紙の中で「バイアルド」や「ラクレット(1898年キューバ解放戦争で闘った将軍)」の名で呼ばれているのは、リーパリ島の共産主義者らのリーダー、反ファシズムを掲げる父を持つレオニーダ・ボンジョルノ。1929年には航海図を模写して、反ファシズムのジャーナリストらの逃亡の手助けをしている。

バイアルドことレオニーダの父親は生真面目な男だった。地元の楽団でトロンボーンの第一奏者を務め、ファシスト党歌『Giovinezza(青春)』を演奏しなければならない時には楽器を下に置くほどであった。昔からの社会主義者で、体制に順応しない姿勢に誇りを抱き続け、アメリカ軍から地元ファシストの名前を密告するよう言われた際にも拒否している。たとえ自己満足に終わろうとも、その姿勢を崩すことはなかったのである。
息子のレオニーダはボローニャの大学で経済学を学び、島育ちにしては珍しくアルプス歩兵旅団に中尉として入隊。ナチの捕虜になるものの逃亡し、その後はポール・ザネッティの偽名を使ってフランスでパルチザンをしていた。知的な活動家で、『翼の折れたツバメ』の世話をすることにも躊躇しなかった。たとえ、それがムッソリーニ統帥の娘であっても。
これらの秘話は『la Stampa』紙の元編集長マルチェッロ・ソルジ氏が、エッダの書簡集やレオニーダの備忘録、発言集などの資料を丹念に研究した末に刊行、4月1日に出版される『Edda Ciano e il comunista(原題訳:エッダ・チャーノと共産主義者)−ムッソリーニ統帥の娘の隠された情熱−』に記されているもので、出版に先駆けて昨年10月1日のトリノ新聞にソルジ氏自身が明かしている。

同書は手紙の文面を基にして書かれている。ある時はフランス語で、またある時は英語で綴られたこれらの手紙は、まるでアレクサンドル・デュマの小説のようで、レオニーダの息子であるエドアルドさんの古い箪笥の中に、一房の髪の毛、手紙、写真、メモ書きなどと共に埋もれていた。
ソルジ氏はまずこれらの資料を検討し、真実に基づきながらロマンティックな物語に仕立てあげ、結末に関してはローマ大学近代史教授による専門的な見解を採っている。
エッダとレオニーダの最初の関係は私心からであったが、慎重なものであった。1943年7月25日にベニート・ムッソリーニを逮捕した委員会は、その後、娘のエッダをリーパリ島の中央にあるあばら屋に押し込んでいた。そこでエッダは知り合ったばかりのレオニーダに、ティンパロッツォ家の屋敷に住めないものかと頼んだのである。後にエッダはこの屋敷のことを、ナポレオンに捨てられたジョセフィーヌが名付けたマルメゾン城にちなんで『プティ・マルメゾン』と呼んだ。レオニーダは父の同意もえて、エッダに居住の許可を与えたのだった。
春のある夜、この美しい屋敷のバルコニーでの逢瀬。壁に寄りかかったレオニーダはエッダの脚を、35才の身体の中で最も美しいと彼女自身が言っていた脚を撫でた。

同い年のレオニーダは恋におちるが、当初、エッダは話を先に進めようとはさせなかった。エッダは卑猥なゲームに加わっては、リパーリ島やブルカーノ島の海岸で皆をあきれさせる。しかし、2つの面を持つ向こう見ずな女性。エッダは用心深く、家族に起きた悲劇による傷はいまだ癒えてはいなかった。
レオニーダが「私の理想の女性でいてくれないのですか?」と訴えると、エッダは小馬鹿にしたかのように「私が男性すべてにとって理想の女性でいられると思うの?」と答えた。
レオニーダは彼女を愛し、そして恐れていた。魔女キルケーと共にいるオデュッセウスのように感じ、オデュッセウスにキルケーが故郷イタケーに帰還するための2つの航路を教えるくだりをそらで演じて見せた。
これに対しエッダは、バイロンの一節で応えている。
「静寂と涙の中で、私達が離ればなれになった時 私達の魂は2つに別れる」
情熱は育まれる、愛や信頼と共に。エッダは父ムッソリーニを戦争に向けて後押ししたとしてリパーリ島へ流刑にされていたのだが、ここでの滞在中にある備忘録をしたためている。おそらくレオニーダの助力もあったのだろうが、自らにかけられている政治責任のすべてを否定し、「党内では何の役職にもついていませんでした…。外務大臣の妻として与えられた指示に従っていただけでした。」と。
そして1946年6月末、この備忘録によってと言うよりは、恩赦によって刑期を切り上げての釈放連絡が届いたのだった。

当時の『Corriere della Sera』紙には、「 “ このエレガントなご婦人 ” は島から出ることには関心がないようで、それは “ 地元のたくましい若者が彼女にご執心で、まんざらでもない ” からだ」と辛辣な記事が載せられた。
実際には、エッダはローマに残してきた子供達に会いたがっており、思い出の品としてレオニーダがスケッチした彼女のヌード画を携えて来ていた。しかしながら、先の記事では次にように続けられている。
「この若者のことを “ 親愛なる友人であり恋人 ” とか “ 私はバイアルドがとても恋しい ” とめで、“ パルミーロ・トリアッティ(イタリア共産党指導者)先生の愛弟子さん ” と呼ぶ時には、話し始めにはあった皮肉な調子が消え失せる。」
一方、沈黙を増してゆくレオニーダの方は、未来の妻アンジェラ、その豊かな髪ゆえに『Chevelue(仏語:多毛)』と呼ばれる女性に出会っていた。
エッダとレオニーダの再会は、まずはメッシーナのホテルで。この時はエッダが偽の身分証を使い、その後、また別離。より情熱的な、より苦渋に満ちた手紙。そして、エッダは信頼からこんな心情まで打ち明ける。
「なぜ神は私に愛する人間二人のどちらかを選ばせようとするの?」
銃殺刑に処された夫と、それを阻止してくれなかったために許せずにいる父を指しているのだろう。
最後にはエッダの悲痛な叫び。
「私と共に来てください。神に与えられたこの幸せを捨てないで。」
私達の関係は終わったのです。レオニーダからの返信は間遠になり、そしてアンジェラと結婚。
1971年に、60代になった『エッレニカ』と『バイアルド』が、あのリパーリ島のある壁の前で再会をする。壁にはホメロスの叙事詩の中に出てくるキルケーの言葉が、かつてレオニーダにより刻まれていた。
「そなた、ひとり分別を備えた者、我は二つの道を教えよう。」
情熱の炎が消えたことはなかったのだ。
(2009年3月27日 記事:Corriere della Sera 写真:Webster.it

 

 

このエッダさん、なかなかのじゃじゃ馬だったそうでして。ウィキペディアによればムッソリーニに、「イタリアは服従させたけど、自分の娘は決して服従させられないだろうな」とまで言わせた強者だったようです。

 

イタたわニュース関連記事
ムッソリーニの名前をつけて19万円GETしよう!


Pocket

No comments yet.

コメントを残す

スパム防止の為、計算に答えて下さい * Time limit is exhausted. Please reload the CAPTCHA.

Top